森山大道をどう読むか——荒さ、複写、歩き続ける視線

写真の見方
写真; 森山大道; 写真集; スナップ; 写真文化
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森山大道の写真は、よく「荒い」「ぶれている」「ざらついている」と言われる。
その見方は間違っていない。けれど、森山大道の強さは荒れた見た目そのものではなく、街の落ち着かなさを無理に整えて見せないところにあると思う。

写真はいくらでもきれいに整えられる。
構図をまとめ、ノイズを抑え、意味をはっきりさせて、どこを見ればいいかまで示すこともできる。
森山大道の写真は、その反対側にいる。見えすぎない。近すぎる。切れすぎている。何を見ているのか、一度では掴みきれないこともある。
それでも強く残るのは、写真の向こうから都市の体温や雑音まで渡ってくるからだろう。

前提

以下は本人取材にもとづくものではない。
Daido Moriyama Photo Foundation の年譜・書誌、SFMOMA の作家解説、Fondation Cartier の展示テキストをもとにした鑑賞ノートである。作品や写真集の受け止め方には幅があるし、ここでの整理もその一つにすぎない。

荒さは、未熟さではなく態度に近い

森山大道は、《アレ・ブレ・ボケ》という言葉と結びつけて語られることが多い。
粒子が荒く、ブレがあり、ピントも必ずしも端正ではない。ここだけ切り出すと、単にラフな写真のように見える。

ただ、この荒さは「うまく撮れなかった結果」というより、世界をならしすぎないための態度として見たほうが近い。
戦後の都市、看板、舗装路、夜の光、通りすぎる人、アメリカ文化の気配、商業の匂い。そうしたものは、もともと整っていない。森山大道の写真は、その混線を解きほぐしすぎずに受け止める。

だから、彼の写真を「技巧的に荒らしたスタイル」とだけ読むと少し足りない。
むしろ大事なのは、きれいに説明できる距離まで下がらないことだ。画面が不安定なのは、撮影者が頼りないからではなく、世界との距離を早々に固定していないからだと思う。

歩きながら撮るということ

Fondation Cartier の展示テキストは、森山大道が小さな手持ちカメラを身体の延長のように使い、歩きながら撮る姿勢を強調している。
ここは大事だと思う。

大きな機材で立ち止まり、構図を完全に組み立てるのではなく、歩く速度のまま撮る。
だから画面には、構図の完成度より先に、出会ってしまった瞬間の圧力が残る。斜めに傾くフレーム、被写体との近さ、切れた輪郭、強すぎるコントラストは、未整理な都市を前にした身体の反応として読める。

ここで大事なのは、街を「観察対象」として外から眺めるのではなく、街の流れの中に自分の身体を入れていることだろう。
森山大道の写真には、冷静な記録者というより、通りを歩き続けるひとりの通行者の視線がある。

森山大道は、一枚の名作だけで読むと狭くなる

森山大道には、よく知られた強いイメージがある。
でも、この人を一枚の代表作だけで読もうとすると、かえって見誤りやすい。

彼の仕事は、写真集で読むときに厚みが出る。
公式年譜と書誌を見ても、1968 年の『Japan: A Photo Theater』、1972 年の『Hunter』『Farewell Photography』、その後も長く続く『Record』など、本として編まれた単位がずっと中心にある。

森山大道の写真は、一枚だけ抜き出しても強い。
ただ本当の怖さは、似た街、似た犬、似たポスター、似た唇、似た舗道が、少しずつ温度を変えながら何度も現れるところにある。場所と時代をずらしながら、何度でも戻ってくる。
その反復を見ていると、彼が「決定的な一枚」を狙っていたというより、都市が繰り返し見せる断片を執拗に集めていたことが見えてくる。

複写や切り取りが示すもの

森山大道を単なるストリート写真家として読むのも、少し狭い。
SFMOMA の解説が触れているように、彼は 1969 年の《Accident》で、既存のイメージを撮り直し、切り取り、写真を複写機のようにも使っていた。

この感覚は、いま読むとかなり現代的だ。
私たちが見ている街は、もともと看板、広告、印刷物、テレビ、ポスター、画面で埋まっている。つまり現実そのものが、すでに大量の複製イメージに覆われている。森山大道は、その状況を前にして「純粋なオリジナルの現実」を撮ろうとしたというより、複写だらけの世界を、さらに写真で引き受けたように見える。

だから彼の写真には、ときどき被写体そのものより、「すでに誰かに見られ、印刷され、消費された像」の気配が濃く残る。
ここがおもしろい。森山大道は街を撮っているが、同時にイメージで覆われた街も撮っている。

黒白の人として固定すると、近年の仕事を取りこぼす

森山大道を語るとき、多くの人はまず黒白のざらついた写真を思い出すだろう。
それは自然だし、間違いでもない。

ただ、Fondation Cartier の Daido Tokyo や SFMOMA の解説が示すように、近年の森山大道を黒白だけで固定すると片手落ちになる。
近年のカラー写真には、初期の荒々しさとは違う、もっと直接的で平たい明るさがある。都市の猥雑さが消えるわけではないが、黒白の高コントラストほど悲劇的には見えない。

この変化は、昔の牙が抜けたというより、都市の雑音を受け止めるやり方が一つではなかったことを示しているのだと思う。
森山大道は、一つの成功した様式に安住した人というより、写真がどこまで壊れ、どこまで持ち直せるかを長く試してきた人として見たほうがいい。

では、森山大道の何が今も残るのか

いまは、どのカメラでも高精細に撮りやすい。
露出もピントも安定し、ノイズも減らせる。写真を「見やすくする」技術は、昔よりずっと身近になった。

そんな時代に森山大道がまだ効くのは、古い粒子感が懐かしいからではない。
むしろ、写真が見やすすぎるときにこぼれ落ちるものを思い出させるからだろう。

見やすい写真は親切だ。
ただ、その親切さはときどき世界のざらつきまで削ってしまう。森山大道の写真はそこに逆らう。何が写っているかを一発で説明するより、街の匂い、速度、疲れ、欲望、孤独のようなものを、少し判然としないまま残す。
その「判然としなさ」は、いま見ても古びない。

どんな人に向くか、向かないか

森山大道の写真や写真集は、次のような人に向いていると思う。

  1. 写真を「うまく撮る技術」だけでなく、見る距離や歩く速度の問題として考えたい人。
  2. 戦後日本の都市文化と写真表現の関係を知りたい人。
  3. 一枚の完成度より、写真集の流れや反復の力を味わいたい人。
  4. きれいに説明されすぎない写真を必要としている人。

反対に、最初の入口としては合いにくい人もいる。

  1. 構図や露出の正解をすぐ学びたい人。
  2. 写真に明快な物語や整った説明を求める人。
  3. 「代表作を一枚見れば作家像も分かる」と考えたい人。

森山大道は、分かりやすく整えてくれる写真家ではない。
むしろ、分かったつもりになる速度を少し鈍らせる写真家だと思う。

はじめて見るなら、ここを確かめたい

  1. まず一枚の有名作だけで判断せず、写真集単位で眺める。
  2. 『Japan: A Photo Theater』『Hunter』『Farewell Photography』の差を見る。
  3. 「荒い」こと自体ではなく、なぜその荒さが必要なのかを考える。
  4. 被写体そのものだけでなく、看板、ポスター、ガラス、印刷物など、都市の複製イメージに注目する。
  5. 黒白だけでなく、近年のカラーも見て、同じ作家の連続と変化を確かめる。

森山大道は、街を美しく整えて見せる人ではない。
街がこちらに与えてくる圧力を、そのまま写真の側へ移してくる。だから見たあとに、気分よく「理解した」とは言いにくい。
けれど、その理解しきれなさこそ、この写真家の仕事の一部なのだと思う。

一次情報と参照